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おくのうみ
奥の海
久生 十蘭
「別冊週刊朝日」1956(昭和31)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,005 字 · 26 页
「足るほどに頂戴しました」
といって、ニッコリ笑った。
行態にも意外なことが多い。身舎の薄闇の中に、ひっそりとしずまっているだけのひとだと思っていたが、長らくの貧乏に鍛えられてきたせいか、呆れるくらいしっかりしている。
翌朝、起きぬけに、豆腐を売る店はどこ、八百屋はどことたずね、笊に鳥目を入れ、胸をそらして出て行った。あとで八百屋に聞くと、十二文という大根を姫言葉でまくしたてて二文負けさせ、帰りしなに、棚にあるオロヌキを、ひょいと一とつまみ取って帰ったということである。
そういう夢のような日が、しばらくはつづいたが、西国の米の不熟毛のせいもあって、金十郎の手許がおいおいに詰ってきた。詰ったというのは食の道のことだが、一年の先の分まで借りだしたうえに、一人がかすかすにやっていく雀の涙ほどの切米を、舅にまで分けるのだから、くりまわしのつけようがない。
起きぬけに長屋を出て御用所で水を飲み、朝昼二度の餉をぬくことにしたが、六月になると西国総体に米が不足し、大阪からの廻米が途絶えてお倉の扶持米の石が切れ、一人、日に二合という面扶持になり、舅の口どころか、知嘉姫に眼玉のうつるような薄い粥をすすらせることしかできなくなった。