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こをうばう

子を奪う

豊島 与志雄

「中央公論」1921(大正10)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 39,292 字 · 80 页

青空文庫

そしてぶつかる日は早く来た。

未明に少し雨が降った薄曇りの日だった。彼は二階の縁側に立って、庭の隅の薄赤いものをぼんやり見ていた。乙女椿の花だということに自ら気付いたのは、暫くたってからであった。彼は眼鏡をかけるのを忘れていた。慌てて眼鏡を取って来て、また椿の花を見直した。――其の日の午後、依子は家へ連れられてきた。

兼子は、敏子自身で依子を連れてきてほしいと希望した。敏子は、そんな厚かましいことは出来ないと云った。然し、依子は殆んど母親と一緒にしか外出したことがなかった。それで兎に角、敏子は女中代りの内弟子を留守に頼んで、ついて来ることになっていた。幾代が迎えに行った。三人は自動車でやって来た。

彼は昼食を済すとすぐに、散歩に出かけた。女達ばかりに任した方がいいと思った。敏子に一度逢いたくもありたが、今は逢わない方がいいと思った。夕方帰るつもりだった。街路をぶらぶら歩いてると、薄ら寒い頼りない気持ちになった。然し友人の家に行きたくもなかった。瀬戸の伯父を訪ねたくもなかった。知人の顔は一切見たくなかった。ふと思いついて植物園へはいった。桜の下や池の縁の人群れを避けて、高地植物試作場附近の、木立の奥のベンチに坐った。