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ふじ

富士

岡本 かの子

「文芸」1940(昭和15)年11月号~1941(昭和16)年4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 40,579 字 · 82 页

青空文庫

「どうしたらいいだろうなあ」

山の祖神の翁は螺の如き腹と、えび蔓のように曲がった身体を岸の叢に靠せて、ぼんやりしていた。道々も至るところで富士の嶺は望まれたが見れば眼が刺されるようなので顧ってみなかった。

岸の叢の中には、それを着ものの紐につけると物を忘れることができるという萱草も生えていたが、翁はそれも摘まなかった。せめて悩んでいてやることが娘に対する理解の端くれになりそうに思えた。

前には刀禰の大河が溶漾と流れていた。上つ瀬には桜皮の舟に小を操り、藻臥の束鮒を漁ろうと、狭手網さしわたしている。下つ瀬には網代人が州の小屋に籠って網代に鱸のかかるのを待っている。

翁はときどき、ひょんなところで、ひょんな憩い方をしていると、苦笑して悩みつつある一人ぼっちの自分を見出すのであったが、なかなか腰は上げ悪かった。

東国のこのわたりの人は言葉や気は荒かったが、根は親切だった。餓えて憩っている老翁のために魚鳥の獲ものの剰ったのを持って来て呉れたり、菱の実や、黒慈姑を持って来て呉れたりした。雨露を凌ぐ菰の小屋さえ建てて呉れた。

昼は咲き夜は恋宿という合歓の木の花も散ってしまった。