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ふじ

富士

岡本 かの子

「文芸」1940(昭和15)年11月号~1941(昭和16)年4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 40,579 字 · 82 页

青空文庫

翁は寂しくなった。翁がこの木の下にしばし疲れを安めるために憩うたのは、一つは、葉の茂みの軟かさにもあるのだろうが一つは微紅色をした房花に、少女として自分の膝元に育て上げていた時分の福慈の女神の可憐な瞳の面かげを見出していたのではあるまいか。ぱっと開いてしかも煙れるような女神の少女時代の瞳を、翁は娘の成長に伴う親の悩みに悩まされるほど想い懐しまれて来るのだった。

刀禰の流れは銀色を帯び、渡って来た、秋鳥も瀬の面に浮ぶようになった。筑波山の夕紫はあかあかとした落日に謫落の紅を増して来た。稲の花の匂いがする。

「山近し、山近し」

山の祖神の翁は今は使い古るしになっているこの言葉を呟いた。そしてやおら立上った。その山は確に葉守の神もいそしみ護る豊饒な山に違いない。そしてまた、そこに鎮まる岳神も、嘗て姉の福慈の女神と共に、東国へ思い捨てたわが末の息子が成長したものであろうという予感は沁々とある。それでいてなお急ぐこころは湧き出でない。

河口に湖のようになっている入江の秋水に影を浸すその山の紫をもう一度眺め澄してから翁は山に近付いて行った。

山麓の端山の千木たかしる家へ山の祖神の翁は岳神を訪ねた。