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じょうしき
常識
豊島 与志雄
「改造」1934(昭和9)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,237 字 · 33 页
その感じがますますはっきりしてきて、或る板塀の上から椎の枝葉がこんもりと差出てる下影まで来た時、立止って振向いてみた。濃茶のソフトをかぶった細そりした身体附の若者が、じっと私の方に眼をつけたまま近よってきた。あの男……あなたが私を裏切るために選んだあの男を、私はその時、平野亮二と名前で呼べる気持になっていた。
「何か用ですか。」
私はそう言葉をかけておいて、返事もまたないで歩きだした。彼も私と並んで歩いた。暫くして、私はくり返した。何の用ですか。暫くして、彼は云いだした。あなたは富永さんと結婚なさるとかいう噂があるが、本当ですか。暫くして、私は答えた。結婚などは決してしない。電車道と平行したわりに広い静かな裏通りだった。私たちの対話は、数歩の間をおいて、独語の調子で、水中ででもあるように落付いて響いた。私は云った。私と富永さんのことが、一対君に何の関係があるんですか。数歩してから、彼は云った。結婚はなさるまいと思っていたが、もし結婚して下されば、私は助かるんだけれど……。私は立止った。彼の蒼白い整った横顔が、貝殼のように冷たく見えた。そして率直な厚かましい眼付が、たじろぎもしなかった。