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まぼろしのかなた
幻の彼方
豊島 与志雄
「中央公論」1922(大正11)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页
「お前こそ僕が邪魔なんだろう。」と心にもない言葉が彼の口から出た。
その後では、何も云うことがなくなって黙り込んだ。
姙娠した女を相手に喧嘩するものじゃない!
苦々しかった。二人きりの時は、どんなに激しくいきり立っても、底をわってみれば夫婦間の冗談にすぎなかった。所がそれに胎児という変なものが加わると、二人の心は笑うにしても怒るにしても、同じ一つの火に燃えなくなった。彼女はもはや彼を対手にしてはいなかった。
七ヶ月、八ヶ月……となると、腹が目立って大きくなった。彼女は前年の新婚当時のように、暑い盛りを海岸へ行こうとも云わないで、額には汗をにじませながら、両袖で腹部を蔽って、室の真中に泰然と坐っていた。ただ一つの要求は女中を傭うことだった。その女中が漸く一人見付かると、家の中の用を殆んど凡て任せっきりにして、自分は赤ん坊の着物などを、ぽつりぽつりと縫い初めた。針を手にしたまま、何かをぼんやり思い耽ってることが多かった。
順造はその後ろへ忍び足で近寄っていった。両膝の先を開き加減にして、臀をどっしりと畳に据えながら、大きな腹をつき出し、痩せた薄っぺらな胸と肩とで息をしてる、その様子が可笑しかった。