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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

見つめていると、眼が眩むような気がした。

誰を――何を――愛していいか、彼には分らなかった。

秋子がぼんやり立ってると、彼はそっと忍び寄って、彼女の両膝を後ろから押してがくりとさした。坐ってる横を彼女が通りかかると、ひょいと片足を投げ出して邪魔をした。一緒に次の室へ歩いてゆく時には、軽く彼女に足払いをかけてみた。そんな一寸したことにも、彼女はよく転んだ。そしては怒って、彼の悪戯を責め立ててきた。彼はそれを胸に抱きしめてやりたかった。然し彼女は彼の拡げた腕に飛び込んで来なかった。いつまでも顔を脹らしていた。それが、臨月近くなると、後で眼を濡ましてることがあった。

早く日の光を、自分達に……ではない、秋子の胎内のものに与えることだ! と順造は考えた。

二

秋子は、予定よりも三週間ばかり早く産気を催した。

その朝彼女は、今日一日会社を休んでくれないかと順造に頼んだ。前晩から様子が変だった。それでもなお半信半疑でいた。順造に留守を頼んで、女中を連れて銭湯に行った。帰って来て、それから昼食を済すと、本当に陣痛が襲ってきた。女中が産婆の許へ走った。

弱い中に鋭さを含んだ初秋の陽が、障子の下半分にぱっと射していた。