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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

秋子は布団の上に坐り、膝にのせた括枕によりかかって、障子の日向に写ってる松の小枝の影を、ぼんやり見つめていた。

「どうだい様子は?」

順造は十分おきくらいにくり返し尋ねた。その度毎に彼女はふり向いて、疑惑を含んだ眼付で見返した。何も云うことがなかった。沈黙のうちに、時々その大きな腹が波打って、彼女は肩のあたりをねじ曲げながら、眉根をしかめ歯を喰いしばった。心持ち引歪めた唇の間から、真白な小さい歯並が覗いていた。

「寝たらどうだい?」

「この方が何だか楽のようですから。」

痛みが去って、ほっとして、彼女は縋るように微笑みかけてきた。順造はその腹部から眼を外らして、彼女の手を握りしめてやった。

「しっかりおしよ。お前さえしっかりしていてくれれば……。」

……他のことはどうでもいい、という言葉が喉につかえた。果して他のことはどうでもいいかどうか、彼は我ながら分らなかった。大きな力が上から押被さってきて、胸がわくわくしていた。

松の小枝の影が障子の棧を二つ進んで、も一つ他の枝影が出て来た頃、産婆が助手を連れてやって来た。肥った円顔の上に小さな束髪をつけ、大きな黒革の鞄を手にしてる様子が、変に道化じみていた。