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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

それが暫く間を置いて、地の下からのように底深く伝わってきた。そして時々、気合の声か掛声みたいなものが、その深い響に釘を打込んでいった。

初まったな!

そう思うと、がーんと耳鳴りがした。それから一寸ひっそりとなったが、今度は廊下の彼方の秋子の室全体が、麦酒瓶に息を吹込むように、うーッ、うーッ……と唸り出した。それが間を置いては、次から次へと高まっていった。耳にではなく、胸に伝わる響だった。

彼は立ち上った。廊下に出てみたが、急にぞっと身震いがして、また室の中にはいった。どうしていいか分らないで、室の中を歩き出した。真中にある机を足先ではねのけて、八畳の室の隅から隅へ対角線を、しきりなしに往き来した。隅でぐるりと一廻転するのが、初めは何だか変だったが、次にはそれが一のリズムとなった。とんと一つ調子を取るようにぐるりと廻って、それから真直に平らな歩調となり、向うの隅でまたとんと調子を取った。彼方の室全体の恐ろしい唸りが、それと呼吸を合してきた。

生れるのかしら!

何だかこう得体の知れない真黒な力だった。それがのた打ち廻って、張り切って、裂けて、ぶつりと切れた途端に、猫の仔とも犬の仔ともつかない小ちゃな、ころころとした啼声が、一つ甲高に響いた。