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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

然しその言葉はしっかりしていた。

「まだ暫く間がございますよ。夜中過ぎか明朝になるかも知れません。私がついていますから、御安心なさいませ。案ずるより産むが易いって、全くでございますよ。」

けれど、電灯がともる頃になると、陣痛は可なり頻繁にまた激しくなってきた。順造は大急ぎで食事を済して、秋子の室を一寸覗いた。彼女は頭をぐったり枕に押しあてて、涙ぐんだ眼を異様に輝かしていた。彼はその眼から、自分と自分を引きもぎるようにして、鈎の手の廊下で半ば離室になってる自分の室へ退いた。

もしかすると、秋子は死ぬんじゃないかしら?

ふと頭を掠めた考えが、次の瞬間には、すーっと何処かへ消し飛んで、ひっそりとなった。彼は畳の上に寝転んだ。起き上って机に向ってみた。平素愛読してるフランス革命史を、無理に六七頁読み進んでみたが、更に興が乗らなかった。それからまた寝転んだ。耳を澄しても何も聞えなかった。次第に頼り無い気持になった。長い時間がたった。

彼は突然、じっとして居られない衝動に駆られた。かすかな音が何処からともなく伝わってきた。よく耳を傾けると、唸り声とも叫び声とも息の音ともつかない、何か大きな声が一塊になってる響だった。