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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

「後産でございますよ。」と産婆が云った。

順造は一寸其処につっ立っていたが、産婆が何かの用事にかかったので離室の自分のへ逃て行った。

大丈夫だ、大丈夫だ! 何がかは分らないでただそういう気持がした。

時計を見ると、十二時を少し過ぎていた。あたりが静まり返っていた。雨の降るらしい音が一寸したので、耳を澄したがはっきり分らなかった。窓を開いてみた。妙に空気が稀薄に思えるような、澄み切った静かな夜だった。空には星が一面に輝いていた。

彼はその星々を眺めた。空高く一際輝いている星が一つあった。それに眼を定めてると、冴え返った光りが心の中まで沁み込んできた。星と人間の運命とを一緒にして考えた古人の思想が、嬉しく胸に蘇ってきた。人が生れるのは上潮の時だ、そういうことまで思い出された。

上潮だ、上潮だ!……星が光ってる!

嬉しさとも淋しさともつかないもので、胸が一杯になった。

産の始末がすっかり済んでしまってから、彼は産婆と助手と一緒に、取っておきの鮨を茶の間で食べた。

「実は心配しておりましたんですよ。予定よりだいぶお早くて、お児さんの位置が骨盤まで下っていなかったものですから、手間が取れはしないかと思っていました。