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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

前ほど激しくはないが然し持続的な腹痛が、時を定めずに襲ってきた。秋子は眼をつぶり歯をくいしばって、手先を震わせながらそれを堪えた。額に汗がにじんで、眼が引吊ってると思われることもあった。そういう努力に、産後の衰弱した身体は益々疲憊していった。そして、それを補うものは何もなかった。食慾が一切なくなり、僅かな流動食を嚥下してもすぐに吐いた。薬でもなかなか落着かなかった。

翌日の十時頃彼女は、寝てるのが苦しいから坐ってみたいと云い出した。床の裾の方へ布団を積ませて、それによりかかって坐った。

彼女は暫く、障子の硝子から庭の方を見ていた。それからふと思い出したように、坊やを連れて来てくれと云った。順一の床は前晩から、離れの順造の室に移されていた。順造はそれを抱いて来た。

秋子は子供の顔をじっと覗き込んだ。

「この児は誰に似てるでしょう?」

顔の輪郭が母親に似て眼から額が父親に似てると、看護婦が答えた。

彼女は一寸微笑んで、それから後ろの布団によりかかった。

その時順造は喫驚した。彼女のその姿が、分娩前の姿とそっくりだった。眼の肉が落ち顔が蒼ざめてるのはまだいいとして、薄っぺらな胸で喘ぐような息をし、その下に、大きく脹らんだ腹がどっしり落着いていた。