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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

そして、奉公は初めてであること、身許も確かであること、乳は差乳で分量も多いこと、産後十ヶ月ではあるけれど、牛乳よりは子供のためにいいことなどを、ぱさぱさした而も丁寧な能弁で云い立てた。

「この児です。」と彼はぶっきら棒に、室の隅に眠ってる順一を指し示して云った。母親が産後の腹膜で悩んでるので、是非面倒をみて貰いたいと、頭から押被せるような調子で頼んだ。

婆さんは座を立って、廊下へ女を呼び出し、暫く何やら囁いていた。それから順造の前に来て、給金を二十円ほしい事と、二三日は目見のつもりでいてほしいこととを断った。

婆さんが帰った後で、女は不器用なお辞儀をして云った。

「よろしくお願い致します。」

口先から出る声で語尾が高くはっきりしていた。入江竜子という名だった。大柄な立派な体格で、眼が大きくくるりとしてることだけを、順造は見て取った。

彼は秋子の所へ行って、乳母が来たことを知らせた。彼女は初め腑に落ちないらしかった。それから、遠くを見つめるような眼付をして、漸く首肯いた。

「連れて来ようか。」

「ええ。」

竜子は室の隅に坐って、何やら考え込んでいた。それを順造は廊下の外から呼び出した。