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まぼろしのかなた
幻の彼方
豊島 与志雄
「中央公論」1922(大正11)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页
彼女は病室にはいって、程よい辺へ坐り、低く頭を下げて云った。
「不束者でございますけれど……。」
その挨拶を順造は、自分に対する先刻の挨拶よりは、遙かに立派であると思った。
「お頼みしますよ。」と秋子は云っていた。「私はこんなですけれど、あなたが坊やの面倒を見て下されば、ほんとに安心します。」
順造は席を立って、茶の間の方へ行き、次に庭へ出た。何だか気持が落着かなかった。看護婦が来た時とは全く別な感じ――家の中に女性が一人殖えたという感じが、妙に気にかかった。
然しその感じは、やがて何処かへ飛び去ってしまった。秋子の容態が次第に険悪になっていった。
熱が九度以下にさがって、脈搏が百十五にも及んだ。始終嘔気があって、僅かな流動食も喉に通り難かった。そのくせ、いつも喉が渇いていて、盛んに番茶の熱いのをほしがった。煮立って間もない熱いやつを、平気で飲み下した。腹痛が長く続いて、泣くような唸り声を立てた。痛みが去ると、ぐったりしながらも、手足がだるくて堪らないと訴えた。前腕と足の腓腸部とを、始終さすってやらなければならなかった。そしては昼となく夜となく、頭と心臓部とに氷嚢をあて、腹部に温湿布をし、足先に湯たんぽを入れて、うとうとしていた。