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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

同じような静かな夜だった。虫の声が聞えない代りに、しいんと凍りつくような底冷が感ぜられた。眼の前の女が、順一の枕頭で看護してる女が、秋子であってくれたら、とふと思ったのが、いやに気分にこびりついてきた。竜子の何だかもやもやとした過剰の肉体から、むず痒いような反感と嫌悪と、また同時に好奇心とを唆られて、彼は不機嫌に黙り込んでしまった。

竜子も黙り込んでいた。寝ている順一の赤い顔が、静かに静かに皺を寄せて、それがしまいには無邪気な微笑に変った。

「あら、何が可笑しいんでしょう。」そして竜子は順造の方を顧みた。「夢をごらんなすってるのかしら……それとも胞衣に引かされてでしょうかしら。」

順造はふいと立ち上った。

夢をみてか、それとも胞衣に引かれてか……その微笑が、底知れぬ闇の中まで、秋子の死へまで、根を張っていた。

彼は恐ろしい場所をでも遁れるような心地で、離れの自分の室へはいった。ことりとの物音もしなかった。彼方の室に、竜子と順一とが居ることは分っていたが、分娩の唸りとも瀕死の唸りともつかない、暗い鈍い底力のある音が湧き上って、腹だけ脹れ上った骸骨の怪物が、影絵のように浮出してきた……。