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おうまじるしはいしゃく
御馬印拝借
山本 周五郎
「講談雑誌」博文館、1944(昭和19)年2月号
N1 · 挑战 · 新字新假名 · 21,483 字 · 43 页
坂道を登る喘ぎと、掻きわけてゆく叢林のざわざわいう音だけが、僅かに列の動きを示しているばかりだった。……死んで呉れ、全員あげて討死をして呉れ、掛川を出るとき云われた言葉は今もまざまざと耳にのこっているし、そう云ったときの康政のくいいるような眼光も忘れられない、かれはその言葉とまなざしとを思いかえすことによって、当面している任務の重大さを改めてたしかめる気持だった。
甲斐の武田氏と三河の徳川氏とのあいだになにか事が起るであろうとは、すでに世人のはやくから推察していたところである、これまで両家には大井川を堺として互いに侵すべからずという一種の不侵略条約がとり交わされていたが、戦国の世のことではあり、雄大な勢力をもっている武田晴信が、当時ようやく擡頭しはじめたばかりでまだ劣弱な存在でしかなかった徳川氏との盟約を、どこまで守るかはまったく疑問だった。そしてその疑問が、ついに事実となってあらわれるときがきたのである、……駿河のくに府中城(駿府ともいう、現在の静岡市)には武田氏の部将である山県三郎兵衛昌景が二軍の軍を擁して居た。