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びしょう
微笑
豊島 与志雄
「雄弁」1919(大正8)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,995 字 · 43 页
上野へ着くと、彼はすぐに何処かへ行ってしまった。その跡をつけてみるだけの好奇心も私達には起らなかった。否それよりも上野の駅を出るとすぐに彼の姿は見えなくなってしまうのであった。
「変な男ですね。一体何者だろう?」私達はよくそういう疑問をくり返した。「僕達に帰依してる者かもしれませんぜ。」とはては笑ってしまった。然し彼の黒ずんだ眼の光りが、いつとはなしに私達の心を乱しはじめた。
或る夜、私がそっとS――駅の階段を下りてゆくと、その男が立っていた。歩廊の縁の線路のすぐ近くで、柱の影の暗い所だった。両腕を胸に組んで何か考え耽っている様子で、時々頭を横に軽く傾けていた。何をするのかしらと見ていると、いつまでたっても動かなかった。私は静に彼の方へ歩み寄った。と突然彼はふり返った。私達の息が白く凝って一つに流れた。私の顔をじっと見たかと思うと、彼は一つ陰惨な瞬きをした。それから急に右手を上げて親指の爪を噛んだ。そしてすっと向うへ歩いて行った。それが殆んど一瞬間の間であった。私は呆気に取られて、ぼんやり彼の後姿を見送った。彼は暫く向うを歩き廻っていたが、何と思ったか静に階段を上って行った。