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あるさっかのやくび
或る作家の厄日
豊島 与志雄
「群像」1949(昭和24)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,284 字 · 21 页
戸外に虫の声がする。
「どうした。」
突然の人声だ。振り向くと、襖を少し開いて、あやめ模様の白っぽい着物の女が坐っている。
「先生。」
か細い声で呼ぶ。虚を突かれて、おれはぞっと総毛立ち、顔から血が引いたのを自分でも感じた。
「先生。」
さよ子だった。
「お食事は、どう致しましょう。」
つめた息を吸って、平静に戻るのに、ちと時間がかかった。
「食事はいらんと言っておいたんだが、君たちは。」
「お待ちしておりました。」
「ばかだな。早くすますんだよ。」
へんに腹が立った。なぜかおずおずしているさよ子を呼んで、小皿のもの、たたみ鰯だのすずめ焼だのみず貝だの、なまぐさ物をすべて持ってゆかせることにした。おれにはもうそんな物はいらないんだ。ただ腹立たしかった。
「卑屈な気持ちを持っちゃいかんよ。自主自立、これが文学には最も大切だ。」
おれの顔をぼんやり見上げてる彼女に、尋ねてみた。
「先達ての下山総裁事件ね、あれを君はどう思うんだい。」
彼女はぽかんとして、考えてみようともしないらしい。
「あの自動車の運転手だ。下山さんが三越にはいって、ちょっと五分間ばかりと言ったのを、朝の九時半から午後の五時まで、七時間半もぼんやり待つということが、あるものか。