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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

夢中になって取返しのつかないことをしたろうと思います。また、恋しても愛してもいなかったとしたら、別な興味で臨んでいったろうと思います。私はこう思っています。男が女と肉体的に接触する場合は、深い恋か単なる性慾かのどちらかだと。所が私は光子さんに対して、盲目的な深い恋を感じてもいませんし、単に性欲で臨むほど無関心でもいません。何と云ったらいいですか、こう……あの女を清くそっとしておきたいというような心持、愛……愛です。私は本当にあの女を愛しています。」

「君は全くの理想家だね。」と私は冷かに云った。

「ええ、私は理想家です。自分のあらゆる行動を理想で律してゆきたいと思っています。単なる理想でなしに、実際の行動をも支配するほどの強い理想が、本当に新らしい時代を生長させるのであって、もし……。」

云いさして彼は俄に口を噤んだ。私の皮肉な眼付に気付いたのだろう、ぴくりと眉根をしかめて、眼を伏せてしまった。私は空嘯いて煙草を吹かした。彼が理想家であることは前から分っていたが、その理想を光子に対しても応用して……そして、彼が光子に長々と恋愛論をしてきかしたという話を、私はふと思い出したりして、変に皮肉な苦笑的な気持が募ってきた。