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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

殊に相手が、反感も憎悪もない快い異性の時にそうである。私は甘っぽく嵩にかかってゆく気持になって、急な大事な話というのを聞かないで、このまま光子を放すものかと決心した。そして、どうしたら彼女が話し出すだろうかと思い惑ってる所へ、高い角張った建物や電車自動車の響きや忙しげな通行人など、眩しい錯雑した都会と、私が朧ろげながら推察してる彼女の話の内容――恐らくは恋愛問題――とが、相容れない世界となって心に映ってきたので、こんな風ではとても駄目だと思って、知らず識らず歩みを止めた。もういつのまにか堀端に来ていた。葉の散った柳の細い枝影を、派手な大柄な絣の米琉の着物に粗らに受けて、一二歩先で足を止めて私の方を振向いた彼女の姿が、堀の水と空とを背景にくっきりと浮出して見えた。

「いい天気だから、郊外でも少し歩いてみましょうか。」と私は、その瞬間の咄嗟の思いつきに自ら微笑みながら云った。

「ええ、先生さえお差支えございませんでしたら。」と彼女は平気で答えた。そして日傘の先で、ぐいぐいと地面をつっついた。――水浅黄に黒で刺繍のしてある日傘を、彼女はその日一度もささないでステッキのように持ち歩いたのを、私は今はっきりと思い出す。