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いわゆるひひょうの「かがくせい」についてのこうさつ

所謂批評の「科学性」についての考察

戸坂 潤

「文芸」1938(昭和13)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,581 字 · 21 页

青空文庫

印象の成立に、読者乃至批評家の教養がどんなに大きな役割を演じているかは誰でも知っている。色々の云い方もあろうが、要するに教養が印象を決めるのだ。印象の内には教養が融け込んでいる。それはそれでいい。だが、教養の内でもまだその時々の印象の内に融け込めずにいるものもあるのだ。印象や直覚や好みなどに融け込んでいない教養は教養でないと云って了えばそれまでだが、それは教養の教育的な過程を無視することになる。教養は身についたものでなければ本物ではあるまいが、併し身につくまでは大いに自他によって教育されたものなのだ。極端に云えば、教えたり覚えたりすることが先行して、時あって教養は初めて身につくことも出来る。教育のある人間が教養があるという常識は之を物語る。

この何でもないようなことは、意外に重大な個処であることを注意しなければならぬ。覚えた知識が何か、と云う。教え込まれたものは身につかないとも云う。それは嘘ではない、と共に真理の全体でもない。身についているものと教え込まれたものとの間の距離、背反、を問題にしないような身につき方は、嘘だ。教え込まれたもののために、身についているものを切り捨てることが誤りであると共に、身についたもののために、教え込まれたものだからと云って切り捨てるのも、大いに誤りだ。