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りゃくだつせられたるおとこ

掠奪せられたる男

豊島 与志雄

「新潮 第二十九卷第三號」新潮社、1918(大正7)年9月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 23,398 字 · 48 页

青空文庫

秀子はふと、山田の方を顧みた。彼女はきっと下唇の端をかみしめた。眼が異様な輝きを帯びた。そしてその緊張した一瞬が過ぎ去ると、彼女の顔は、その眼とその唇とで静かな微笑のうちに、微笑とさえも云えない一抹の晴れやかな赤味のうちに、おのずと融け去っていった。……山田は彼女の腕の中に居た。そしてそれを自ら意識した瞬間に、息のつまるような柔かな圧迫と共に彼女の低い声を聞いた。

「今日は帰さないわ。よくって。」

豪雨は五時すぎに止んだ。然し風はやはり強かった。夜に入ると、時々驟雨が風に送られて襲ってきた。そしてその大きな魔物のような響きの中に、山田は従順な野獣に化していた。

一歩深淵に滑り込んだ足は止まる術を知らない。山田は自ら身をもがきながらその底まで陥らなければならなかった。而も陥ったのは彼一人で、秀子は高くから彼を見下していた。

それは単なる台風の余波のみとしては、余りに執拗な一夜であった。山田ははや為す術を知らない深傷を身に蒙った。而も、「伊藤が居る間は……」という言葉は、その傷をして殆んど致命的のものたらしめていた。彼はもう自ら独立した考察を行うだけの力を有していなかった。