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りゃくだつせられたるおとこ

掠奪せられたる男

豊島 与志雄

「新潮 第二十九卷第三號」新潮社、1918(大正7)年9月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 23,398 字 · 48 页

青空文庫

そして七月十二日という日は、彼にとって決定的なものであった。再び起ち得ない彼の上に、彼の凡ての上に、主権を握った秀子はあでやかな微笑みを洩らしていた。そして愚鈍なる彼の眼は、恐る恐る彼女の方に挙げられて、其処に、山岳の裾野を思わするなだらかな弾力性の腹部の起伏を見守っていた。彼の視点が顔に止まり、耳と指先とに止まり、また胸に止っていた間は、彼はなお自己の主であることが出来た。然しその視点が腹部に、神秘な不可測なる生命の息吹きと蠱惑とを有する女性の腹部にまで及んだ時、彼はもはや自己を制することが出来なかった。而も現実として彼がそれを知覚したのは、最初にしてまた最後だったのである。

彼はむやみと町を彷徨した。眠れぬ夜が続いた。午前の二時から三時までの間に、全く空気の流れが止ったむし暑い澱んだ時間があるのを、彼は初めて知った。その前は宵から引続いた夜であり、その後は冷々とした北の微風が流れ出す朝であった。その凡てが澱んで動かぬ時間の間、彼は床の中に幾度か身を悶えて自ら自己を訶んだ。

山田の心が闇黒になればなるほど、秀子は益々晴れやかになった。山田は自ら秀子を方々に誘い出した。