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ほうしんきょうじゅ
放心教授
森 於菟
「屍室斷想」時潮社、1935(昭和10)年3月9日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,647 字 · 10 页
今年の春、雨の日の朝出勤の省線電車中である。いつも降りる御徒町駅についた時あいにく非常にこみあっていた。私は片手に傘を握り片手にカバンを下げて遮二無二突き進んで行った。ようやく出るとすぐ扉がしまったがやれやれと落ち付いて階段を下り、駅から出ようとして初めて雨が降っているのに気がついた。傘を開こうとすると既に私の手にはない。人混みの中を扉のしまらぬうちに出ようとする努力に気をとられて傘をいつの間にか手放したと見える。この時の私の蝙蝠傘はたぶん東京駅あたりまで押しあっている人の背中と背中の間に挟まれて直立したまま運ばれたにちがいない。
私は毎日家へ帰る途中、本郷通りや上野広小路辺でよく買物をする。それも書籍その他自分の入用品を買うことは少くて、子供達への土産の玩具や画本、ないしお弁当のおかずになりそうなものなど、すこぶるよき父親ぶりを発揮するのである。その買物の場合の一〇パーセントにおいて何か忘れる。買物をすれば金を払う義務と品物をもってくる権利とがある。たいがいはその権利の方を忘れるのでことに紙幣を与えて釣銭を待つのに時間がかかるとその間に私の頭は遠く買物という事柄から離れてしまう。