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しんさいゆうき
新西遊記
久生 十蘭
「別冊文藝春秋 第十九号新春小説集」1950(昭和25)年12月25日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 26,654 字 · 52 页
神戸を出発したのが卅年の六月廿六日、その日は卅三年の七月八日、これという災厄にもあわずにここまで辿りついたが、これから先になにがあるか、予想もつかぬむずかしい旅であってみれば、こんなことで安心してはいられない。地図を見ると、目ざすマナサロワール湖は、ここから西北になっているので、磁石を見ながら山を降りはじめた。
ネパール側は、陽のおもてで雪がすくなかったが、西蔵側は、陽の蔭になるのでいちめんの雪。それも油断のならない軟雪で、踏みこむたびに膝まで埋まる。中腹ぐらいまで降ると、山裾に遊牧民の天幕が三つばかり見える。こういう退引ならない場所で人に逢ったら、密入国したことがいっぺんに見ぬかれてしまう。なんとかして天幕を避けたいと思うが、東にも西にも道らしいものは見あたらない。といって天幕が移動するのを待っているというわけにもいかない。心をきめかね、そこへ坐って断事観をやった。無我の観中、観念の傾きでとるべき方法をきめるのである。幾時間か坐禅を組み、濶然と醒めて山を降り、天幕の入口で漢訳の法華経を読んでいると、あるじと思われる四十ばかりのチャンタン人が出てきて天幕へ請引してくれた。