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にほんにおけるくりっぷんじけん

日本に於けるクリップン事件

谷崎 潤一郎

「文藝春秋」1927(昭和2)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,290 字 · 21 页

青空文庫

彼は一旦アントワープに逃げ、七月二十日亜米利加へ向って同港を出帆する汽船モントロス号へ、ミスタア・ジョン・ロビンソンなる仮名の下に乗船した。しかるにこのロビンソン氏には彼の息子と称する一人の美少年の同行者があって、それがどうも、男装をした女らしいというところから、遂に船長ケンダル氏の疑いを招き、ケンダル氏より無線電信を以てその筋へ紹介するに至った。かくして同月三十一日、リヴァプールより跡を追いかけた警官のために、船中に於いて彼と男装をした女とは捕縛せられた。ではその女は何者であるかというに、エセル・ル・ネーヴという者で、クリップンが可愛がっていたタイピストであった。即ち彼はだんだん細君に飽きが来ていて、このタイピストを情婦に持っていたのである。

私は読者諸君に向って、この事に注意を促したい。というのは、マゾヒストは女性に虐待されることを喜ぶけれども、その喜びはどこまでも肉体的、官能的のものであって、毫末も精神的の要素を含まない。人或はいわん、ではマゾヒストは単に心で軽蔑され、飜弄されただけでは快感を覚えないのか。手を以て打たれ、足を以て蹴られなければ嬉しくないのかと。