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にほんふどうき
日本婦道記
山本 周五郎
桃の井戸
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,620 字 · 26 页
その前後のことだが、御屋敷の北がわのひとところに忘れられたようなかたちで楢の林が残っていた。日蔭のじめじめした場所で地面にはいっぱい銭苔が蔽いついているし、十四五本ある楢木も育ちが悪くて、夏になっても葉が疎らにしか着かない。もちろん誰の注意を惹くわけでもなく、私もたまたま通りかかりに見やってはさむざむとしたものを感ずるだけで、或る年それが伐り払われて侍長屋が建ったときも、かくべつなんの感興もうけはしなかった。……ところがそれからずいぶん経って、私はふとそこに林のあったことを想いだし、あのうす暗い日蔭の地面やいじけた枝ぶりのもの悲しげな楢の木々はもうこの世ではふたたび見ることができないのだと考えて、はげしい息苦しさに襲われたのである。本当に息苦しくて身悶えをしたほどだった。もののあわれということに気づいたのはそんな頃からではなかったかと思う。……十六歳の秋、隣りに私より二つ年嵩の茜という方がいて、或るとき奥義抄という書物をみせて下すった。それが和歌の道を覗くようになったはじめであるが「歌はあめのむかしよりおこりて……」という序のことばは今でもなつかしく暗記している。