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くすのきのはなし

楠の話

豊島 与志雄

「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页

青空文庫

父は私の姿を見ると一寸眉を寄せて、「只今。」と私が云う間も与えないでこう怒鳴った。

「お前は奥に引込んでいなさい!」

父の声は鋭くまた震えていた。私は驚いて其処に立ち竦んだが、父はふり返りもしなかった。そして縁側から下に下りて、向うへ行った。村の人達がその後に続いた。

私は奥にかけ込んだ。母は長火鉢の側にじっと坐っていた。私を見上げた顔には殆んど血の気がなかった。ただ眼ばかり輝いていた。そして火鉢の中には火もなかった。それを見ると私は胸が一杯になった。そのまま母の膝に身を投げると、母は強く私を抱きしめてくれた。

私達は長い間そのままじっとしていた。母は殆んど息さえも止ったかと思われるほどだった。私を抱きしめていてくれる胸も両腕も冷たかった。私は母の胸に顔を押し当てたままいつのまにか涙を流していた。母はいつまでたっても何とも云わなかった。

母は私の背中に垂れている頭を時々挙げた。そしてその度毎に溜息をついた。私はそっと下からその様子を窺った。母は柱時計を見てるのだった。一、二分間毎に柱時計を見ては溜息をついた。そしてやがて云った。

「さあ、お母さんは一寸用がありますから。