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くすのきのはなし

楠の話

豊島 与志雄

「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页

青空文庫

心は云い知れぬ悲しみに鎖されてしまった。倉の後ろや庭の隅や竹藪の中で時間をつぶしながら、時々顧みて楠の梢を仰いだ。然しその根元には近寄らなかった。何だか恐ろしいような気がした。そしてしまいには鶏小屋の前に屈んで、鶏の遊ぶのをぼんやり見守っていた。地に長く印している自分の影がいつのまにか薄らいでゆくのも覚えなかった。

「まあ、此処に居たんですか。」そういう母の声が後ろに響いた。私は喫驚して飛び上った。母はすぐ私の後ろに立っていた。私は飛びつくようにして母の手に縋って、声を立てて泣き出した。

「何にも泣くことはありません。」と母は私の頭を撫でながら云った。「さあお家へ帰りましょう。……今まで何をしていたんです?」

私は何とも答えなかった。そして母の手に縋ったまま家の中にはいった。

父はまだIとKとを相手に座敷で話をしていた。そっと覗くと、坐っているのも大儀そうに見えた。私は父の身体を気遣かった。然しその晩父とは一言も口を利く隙がなかった。母は私に先に御飯を食べさして、早く寝かしてくれた。蒲団の中で私は長い間眼覚めていたが、いつのまにか眠ってしまった。

私が気遣ったことは実際になって来た。