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くすのきのはなし
楠の話
豊島 与志雄
「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页
父はその日から俄に元気がなくなって、床に就いてることが多くなった。医者の薬は今迄一種きりだったのが、二種になった。然し食事の時には起きて来た。それからまた時々起きては縁側に屈んで池の鯉に餌をやった。
私は学校に行く外余り家から出なくなった。もう屋敷の中を遊び廻ることもしなくなった。楠の根元には猶更行かなかった。
私はよく父の側についていた。父は寝ながら種々な物語りの本を読んでくれた。疲れると黙ってしまった。すると母が此度は読んでくれた。然しそれらの本も、実は父自身のためのものと云った方が適当だったかも知れない。父自身に向って、或は父自ら或は母が代って読んだ。
それらの物語りをきくのと、学校の下調べをするのと、池の鯉を見るのとが、私の日常の仕事となった。鯉はいつまで見てても倦きなかった。
一月ばかりたった或る晩、父は私にこう云った。
「楠も切らなければならないかも知れない。お前に済まないけれど。」
父が私に許しを乞うような言葉をかけたのは、それが私の覚えてる限りでは初めてだった。楠のことは、私にもいつのまにかそういう運命になるもののような気がしていた。