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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

04 第四部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页

青空文庫

――この男だ、こいつがいたからだ。

六郎兵衛はそう思ったが、ふしぎなことに怒りはおこらず、腹からすっと力がぬけてゆくような、しらけた気持で聞いていた。

「私と滝尾どのとのかかわりはその程度までで、まもなく滝尾どのは屋敷を出てしまったのです」玄四郎は証文のことを隠すために、自分の顔が赤くなるのを感じた、「はっきり申しますが、どうか怒らないで下さい、――滝尾どのには、私のほかに男があったのです、私はその男に会いました、池之端の茶屋でしたが、滝尾どのがその男を私にひきあわせたのです」

「おみやが、ひきあわせたって」

「まだ若い男で」玄四郎は口ごもりながら云った、「滝尾どのより年下でしょう、町人ふうで名は新八とか云いました」

六郎兵衛は動かなくなり、盃を持った手を膝に置いたまま、かなり長いことじっと息をひそめていた。それから急にわれに返ったようすで、玄四郎に酌をさせ、続けさまに三杯、呷りつけるように飲んだ。

「それはいつのことだ」

「三年まえの夏、六月のことでした」

「それで、――」

「それからまもなく、滝尾どのは屋敷から出てゆかれたようです、私はずっとあとで聞いたのですが、ことによるとそのときそのまま、新八という男と立退いたのかもしれません、詳しいことを訊くわけにはいきませんでしたから」