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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
04 第四部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页
「そういうことにして、酒を貰おうかね」と甲斐は明るく云った、「死ぬことを気遣われるより、生きているうち大事にされるほうがいいからね」
おくみが立ってゆくと、甲斐はなにを見るともなく、じっと空をみつめた。
――天皇の御子。
自分の云った言葉が、頭の中に一種の波紋をひろげるようであった。それは静かに、円周を描くようにひろがり、やがてじりじりと一点に凝集し、はっきりとその形をあらわした。甲斐はじっと坐ったままでいて、やがて低く、口の中で囁いた。
「――後西院ノ上皇」
甲斐の眼が、力のこもったするどい光を放つようにみえた。両の頬に竪皺が刻まれ、唇がきっとひき緊り、呼吸が深く大きくなった。
「なるか、ならぬか」と彼は自問自答した、「わからない、御気性はお強くはないようだ、しかし待て、考えてみる値打はある、逢春門院もまだ御健在だ」
甲斐は立っていって、障子をあけた。
やがておくみが、燗鍋と銚子を持って来た。銚子を膳の脇に置き、こちらの火鉢に燗鍋を掛けてから、甲斐のほうを見て、そんなところにいて寒くはないか、と訊いた。気持がしずまったのだろう。声のとげとげしさも消えていたし、顔色も常のようにやわらいでみえた。