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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

04 第四部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页

青空文庫

雅楽頭はふところ紙を出し、額から両の頬、顎のまわりを押しぬぐった。紙はあぶらを吸って汚点になり、彼は三度それを繰り返した。

「原田甲斐め」と雅楽頭は呟いた、「――甲斐め、やはりしれ者だったな」

すると彼の頬がいっそう赤くなった。

久世大和守が帰ってから、半刻ほど経ったが、彼の耳にはまだ大和守の声が残っていた。寛文六年、大老になって以来、幕府の第一人者として、彼は思うままに生きて来た。人に意見されたこともなかったし、まして頭を押えられるとか、譲歩させられるなどということは一度もなかった。世間では彼を「下馬将軍」と呼び、将軍家綱でさえ彼を押えることはできない、といわれていた。だが、彼はいま面上へするどい一撃をくった。それはまったく予想もしない一撃であり、骨に徹するものであった。

――ことにあの証文。

一ノ関の兵部宗勝と取り交わした証文が、甲斐の手ににぎられているという。雅楽頭はすっかり忘れていた。兵部との約束も忘れていたし、証文の取り交わしなどということは、初めから気にかけてさえいなかった。兵部にせがまれたのでやむなく書いただけで、そんなものが問題になろうとは考えたこともなかった。