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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
04 第四部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页
そこでかれらは板倉邸を辞し、大手下馬先の酒井邸へ向かった。
そのとき酒井邸の長屋では、黒田玄四郎が机に向かって書きものをしていた。その日は非番だったので、こんども支配の松本外記に頼まれた、写しものをしていたのであるが、ひと休みしようと筆を置いたとき、声をかけて太田弥兵衛がはいって来た。戸口から高い声で呼ぶので、立っていってみると、弥兵衛は赤い顔をして土間に立っていた。
「どうぞ、あがって下さい」
「いやあがってはいられない」弥兵衛は昂奮しきおいたった声で、首を振りながら、自分の左の掌を右手でぴしっと打った、「今日はこれから、これをやらなければならないんだ」
玄四郎はけげんそうな眼をした、「なんです、試合でもあるんですか」
「真剣だ」と弥兵衛が云った、「これから大書院で老中評定がある」
「老中評定」と玄四郎は訊き返した、「もしや伊達家の訴訟ではありませんか」
「そうだ」
「それならたしか、板倉さまの屋敷でひらかれると聞きましたがね」
「この屋敷に変ったのだ、というのは」弥兵衛はそこで上半身を跼め、玄四郎の眼をみつめながら囁いた、「黒田だけに云うんだが、伊達家の者をやることになったのだ」