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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

04 第四部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页

青空文庫

七十郎は笑った。眼ではするどく靱負を見ながら、声をあげて笑い、ふじこ、と振向いて云った。

「別れにひと騒ぎしよう、芸者を呼べ」

明くる朝早く、三人は青根の宿を立った。

まだ天も地もまっ暗で、勾配の急な坂道を馬でくだるには、足もとが危なく、三人の馬はしばしば滑ったり、躓いたりした。空が白むまで、かれらは黙って乗っていた。

――もういちど原田甲斐に会いたかった。

と七十郎は思った。

ふしぎなほど、甲斐がなつかしくなり、甲斐と会ったときの、いろいろな場面が思いだされ、胸を絞られるような、肉躰的な苦痛を感じた。

――老獪な、肚の底の知れない男だ。

――いちども本音を吐いたことがない。

――兵部などにまでとりついている。

彼はかつて甲斐に絶交を宣言した。世評だけを信じたのではない、彼の眼にも、甲斐が兵部の与党になった、ということが明瞭にわかった。しかも、それを甲斐自身が隠そうともしないこと、亡き新左衛門が口を尽して本心を聞こうとしたのに、まったく相手にならなかったことなどから、ついに七十郎もみかぎったのであるが、そんなふうに変る以前の甲斐、彼が誰よりも信頼し、敬服さえしていた甲斐の存在は、いまでも、彼の中に根強い魅力として残っていた。