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みずとりてい

水鳥亭

坂口 安吾

「別冊文藝春秋 第一五号」1950(昭和25)年3月5日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 30,705 字 · 62 页

青空文庫

目の前が、まッかなのだ。焼けた烈風が地を舐めて走り、いきなり顔を熱のかたまりがたたきつけた。彼は悲鳴をあげて、とびあがった。風下へ夢中に泣いて走っていた。

彼は逃げた道順がまったく分らない。逃げ足が早かったので助かったのである。常に火に追われ、火にさえぎられて、とめどなく、逃げまどっていただけだ。そして逃げのびる先々に、彼に安全感を与えるだけの堅牢な建物や防空壕や広い公園などのなかったことが、彼を助けてくれたのである。

それほどの長距離を走った自覚がないのに、彼は海岸にたたずんでいた。そして夜明けをむかえたのである。

わが家の跡には何もなかった。くずれた瓦礫の下に、書物の原形をそっくりとどめた灰もあった。みんな燃え失せたのだ。まだ東京には多くの家が残っているし、さらに多くの家が日本の各地には有るけれども、彼の住む家はもうどこにもない。

たった半日に、彼は無数の焼けた屍体を見た。見飽いて、立ちどまる気持も起らない。しかし、わが家の焼跡を見ると、悲しさがこみあげて、涙がとめどなくあふれた。そのあたりの路上や防空壕にも黒こげの屍体がころがっていたが、各々の焼跡に立っているのは、彼だけであった。