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かいりゅう

海流

宮本 百合子

「文芸春秋」1937(昭和12)年8月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 35,977 字 · 72 页

青空文庫

敬が泣かない晩はまた別な忘られない思いがあった。十一時すぎて、もうやがて泰造が程なく帰って来るという刻限、それは丁度いつも客間の空気がその魅力の絶頂をなす頃であったが、瑛子はよく、そのときを待っていたように、

「お茶でも一ついれましょう」

と云った。

「さめてしまっているわね。宏ちゃんちょっとあつくしておいで」

客間の裏の板の間に、お茶番のための瓦斯コンロがあった。宏子はそこの板の間に坐りこんで湯わかしを瓦斯にかけた。そこは電燈がつかなくて暗かった。闇の中で宏子の柔かい顎から頬っぺたへかけて瓦斯の焔の色がうつり、そのあまりで四辺が狭くぼーと照らし出されている。客間からの話声をききながら湯がやっとたぎり出して来てだんだん煮え立つ音がしずまって行き、将にふきこぼれようとするところで瓦斯を消す迄の我知らず固唾をのんでいる間の心持。――

余りこんでいない省線電車に腰かけて、郊外の夜を疾走する車体の動揺につれ、吊皮が並んで規則正しく白い環をあっちへこっちへとゆすられているのを眺めていた宏子の若い真面目で清潔な顔の上に、心の深いところから湧いて、音になって外へはきこえない呻きのような反抗の表情が通りすぎた。