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かいりゅう

海流

宮本 百合子

「文芸春秋」1937(昭和12)年8月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 35,977 字 · 72 页

青空文庫

そこの座敷には綺麗な桜んぼを盛った硝子の鉢があった。庭に桜の大木があって、その青葉が陽に透けているのが窓から眺められた。母の使いを云いつけられた宏子が富岡の家へ来ていた。富岡はあぐらをかいた膝の中に宏子を抱いて、短いおかっぱの髪と頬っぺたとへ一どきに自分の髭を剃ってある顔を押しつけた。そして、耳のなかへ、

「宏ちゃん、僕が好き? 僕を愛している?」

と囁いた。宏子はこっくりと合点をした。「じゃ、その証拠をくれる?」宏子はこくりと合点した。

それからよほど経った或る日の午後、宏子が学校からの帰り、家へ曲る蕎麦屋の角を入ると、むこうから富岡が同じ道をこっちへ向ってやって来た。宏子には遠くからそれが分ったが、地べたを向いて変にいそぎ足で来る富岡は殆どぶつかりそうに近づく迄、宏子に気づかなかった。本束の下にメリンス風呂敷の裁縫包を抱えている宏子は、立ち止りながら子供らしい調子で、

「何いそいでいるの、家へ来たの?」

と云った。地べたを見て歩いて来た富岡の顔色は宏子が見ても病気のように蒼くて、眼が血走った様子をしている。富岡は宏子もおちおち目に入れていられない風で、曖昧な意味のはっきりしない言葉をつぶやくと、はっきり宏子をよけるようにしてまた急ぎ足で行ってしまった。