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げんおじ
源おじ
国木田 独歩
「文芸倶楽部」1897(明治30)年8月10日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,455 字 · 23 页
足を舷端にかけ櫓に力加えしとみるや、声高らかに歌いいでぬ。
海も山も絶えて久しくこの声を聞かざりき。うたう翁も久しくこの声を聞かざりき。夕凪の海面をわたりてこの声の脈ゆるやかに波紋を描きつつ消えゆくとぞみえし。波紋は渚を打てり。山彦はかすかに応えせり。翁は久しくこの応えをきかざりき。三十年前の我、長き眠りより醒めて山のかなたより今の我を呼ぶならずや。
老夫婦は声も節も昔のごとしと賛め、年若き四人は噂に違わざりけりと聴きほれぬ。源叔父は七人の客わが舟にあるを忘れはてたり。
娘二人を島に揚げし後は若者ら寒しとて毛布被り足を縮めて臥しぬ。老夫婦は孫に菓子与えなどし、家の事どもひそひそと語りあえり。浦に着きしころは日落ちて夕煙村を罩め浦を包みつ。帰舟は客なかりき。醍醐の入江の口を出る時彦岳嵐身にみ、顧みれば大白の光漣に砕け、こなたには大入島の火影早きらめきそめぬ。静かに櫓こぐ翁の影黒く水に映れり。舳軽く浮かべば舟底たたく水音、あわれ何をか囁く。人の眠催す様なるこの水音を源叔父は聞くともなく聞きてさまざまの楽しきことのみ思いつづけ、悲しきこと、気がかりのこと、胸に浮かぶ時は櫓握る手に力入れて頭振りたり。