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ちちのてちょう

父の手帳

宮本 百合子

「中條精一郎」(追悼録)、国民美術協会、1937(昭和12)年1月発行

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,342 字 · 13 页

青空文庫

大抵土曜日ででもあったのでしょう。十か十一であった私が母や弟と事務所の通りをずっと来て、石段を三つほどあがり、手前へ引っぱるベルを、力一杯ひっぱると、ベルはいかにもバネのよい音でビーンと鳴ります。やがて黒い上っぱりを着た人が出て来て中からドアをあけてくれる。それが父自身のこともあり、小使のお爺さんのこともあり、ごくたまにはどなたか若い方の時もある。事務所のベルをひっぱる時の心持は全く独特でした。私達がゆく頃、ほかのひとは大方おられず、曾禰先生がおられることがあり、

「ヤア」

と、一寸眼鏡の上から眼差しを越して御挨拶になりました。その御様子は今日もあの時分のままです。小使のお爺さんは、縞の着流しで、紺セルの前かけをかけていました。地下室がある。青写真を水に入れてある。箱がある。それらすべては大変珍らしくて、あたりの様子は威圧的であって、私どもは事務所の中ではおとなしく振舞いました。父が話しかけるときでなければ、子供の方からは決してものを云いませんでした。それにまた、事務所の机に向っているときの父の姿の中には、うちにいるときの父とは違う緊張と威厳がある感じでした。