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ぎせいしゃ

犠牲者

平林 初之輔

「新青年」博文館、1926(大正15)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,364 字 · 37 页

青空文庫

最後に此の事件には他に一人も嫌疑者がない。犯罪があって犯人がないというようなことは警察として忍びがたいところだ。それに世間が、新聞が承知しない。そこで、警察は犯人がなければ犯人を製造してもかまわぬ位の意気込みで仕事にあたっている。それも事情やむを得ないのであろう。況んやこの事件では、被告に充分嫌疑をかける表面的理由があるのだから、他に有力な嫌疑者でも出ない限り、彼が証拠不充分で釈放されるのぞみはないと言ってよい。ただ裁判所が一番困っているのは兇器が見つからぬことだ。被告も兇器のことは知らぬ存ぜぬでおしとおしていることだ。

然らば万一、被告が法律上無罪になったとしたら彼は救われるかというと、一たんかくも無惨に破壊された人間の生活というものは容易に繕われるものではない。被告はこれまで、呪いとか、憎みとか、不平とかいうものを知らなんだ。そのためにこそ彼は七十五円の月収で未来の幸福を空想し、この空想が現在の生活を幸福にしていたのである。ところが、今度の事件によって、彼の頭には、不正に対する呪いと憎悪とが深刻にきざまれたに相違ない。それに、浅野合資会社は、この事件のあったすぐあとで破産している。