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ぎせいしゃ
犠牲者
平林 初之輔
「新青年」博文館、1926(大正15)年5月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,364 字 · 37 页
私はこの物語を以上で終るつもりでいた。ところが今村の公判もまぢかに迫った最近ちょっとした事件が起ったので、それを補遺として書き添えておくのを適当だと思った。何故かなら、たとえ正確にはわからなかったにしても、此の事件の真犯人について私が何の意見ものべなかったのは一部の読者を失望させただろうからである。
数日前、私は少し調べ物をする必要があったので、訪客を避けて、沼津の千本浜の一旅宿へひっこんでいた。三日の間、私は新聞も読まずに此の事件とは関係のない或る重大な事件の調査に没頭していた。
四日目の朝であった。昨日まで吹きすさんでいた西風がけろりと凪んで、珍らしく海が凪いでいた。静浦の沖には、無数の漁船が日光を享楽している水鳥の群のように点々と浮んでいる。おだやかな波は、小石だらけの汀へぽしゃりぽしゃりと静かな音をたてて打ち寄せている。一体波の音というものは、宇宙間に於ける最も美妙な音楽であると私は言いたい。それは何千億という細かい小音の集りである。あたかも、大洋の水を構成している無限数の分子の一つ一つの衝撃が、それぞれ独得のひびきを発し、人間の耳では到底ききわけることのできない千差万別の音階をもって自然の一大交響楽を奏しているかのようである。