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かぐらざか
神楽坂
矢田 津世子
「人民文庫」1936(昭和11)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,611 字 · 40 页
「お内儀さんはまあ、どうしたことか山吹町の旦那様やお坊ちゃんのことをよくは云いなさいませんでしたが、俗にいう虫が好かない、というのでございましょうねえ。山吹町の旦那様のお帰りになったあとで、よく熱をお出しになりましてねえ……」
爺さんは筆を動かしながら聞いている。その徐かなものの云いぶりがどこやら内儀さんに似ているように思うている。内儀さんは生前山吹町の人たちをとやかく云うたことがなかったが、それも自分への気兼ねからで、種へは肚の中をかくさず話していたものとみえる。安が帰ったあとで熱を出したという程なのだから余程毛嫌いしていたのだろう。それ程内儀さんが厭がる家から何も養子をとろうというのではないし……。爺さんは筆を動かしながら独りでこう得心している。その実、内儀さんが亡くなってからこのかた、しげしげと訪ねてくる安さんの根気にまかされて爺さんは、どうせ養子を貰うなら安のところからでもいい、というような気になっていた。それが種に云われてみると、どうも、この気もちがはぐらかされてしまうのである。亡くなった人の言葉というのに何やら冒すべからざる値うちがあるように思われて、これに気圧される気もちがある。