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かぐらざか

神楽坂

矢田 津世子

「人民文庫」1936(昭和11)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,611 字 · 40 页

青空文庫

爺さんはそれをききながら「ああ、いいよいいよ」と胸の内で慰めている。「お前さんもなあ、不憫な人だったさ。新らしい着物一枚着るじゃあなしよ」爺さんはこう話しかけてほろりとする。欲しいと云うていた紋付羽織もとうとう買うてやらなかった。箪笥の底に納いこんであった双子の袷も質流れを格安に手にいれたもので、三十何年の間つれ添うて内儀さんに奢ってやった目ぼしいものといえばまあこの袷ぐらいなもの。これに較べてお初は欲しいというものは何んでも身につけている。――爺さんは亡くなった内儀さんが不憫でしようがない。それにひきかえ、「贅沢三昧」のお初が妙に忌々しかった。

爺さんが袋町へ無沙汰がちになっているのは何もお初が急に忌々しくなって、これにこだわっているというのではなく、亡くなった内儀さんへの一種の狷介な心からである。爺さんが裡には若い時から苦労を共にしてきた内儀さんへの感謝に似た気もちが始終ぬくもっていて、これが死なれたあとには余計に思われるのである。それで、内儀さんへ義理を立てるような気もちから四十九日がすむまでは袋町へ足を向けない覚悟でいる。

お位牌のある部屋で夜分など爺さんが書きものをしている傍でお針を動かしながら種は独り言のように内儀さんの思出話を初めることがある。