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かぐらざか
神楽坂
矢田 津世子
「人民文庫」1936(昭和11)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,611 字 · 40 页
「まあ」だの「そうお」だのと声を殺したお初の合槌が二階まできこえてくる。やがて、湯道具の入った小籠を左手に抱え、右手に円い金魚鉢を持ったお初が、
「あら、父うさん、しばらく」
と、のぼりきらないうちから声をかけてきた。
「莫迦にゆっくりだったじゃあないか」
腕をまくりあげて爺さんは鷹揚に団扇を使っている。
「いえね、お湯は疾っくにすんだのですけど、丁度おもてを金魚屋が通ったものですからぐずぐずしてしまって。どお、父うさん、奇麗でしょう」
お初は立ったなり金魚鉢を爺さんの眼の高さにつるした。
「つまらんものを買うてきて。無駄づかいをしちゃあいかんぜ」
爺さんはお初の手から金魚鉢を取って窓枠へ置いた。緋色の長い尾鰭をゆさゆさ動かして二匹の金魚が狭い鉢の中を硝子にぶつかってはあともどりをする泳ぎをくりかえしている。
「無駄づかいどころか、この頃は髪結いさんへ行くのだって四日に一度の倹約ぶりよ。ねえ、父うさん、こないだからおいでを待っていたんですけど、博多を一本買うて頂きたいわ」
金魚をみていた爺さんの眼が鏡台をひき寄せて派手な藍絞りの湯帷子の衿元を寛げて牡丹刷毛をつかっているお初の方へと移っていった。