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わたしがちょうさくりんをころした
私が張作霖を殺した
河本 大作
「文藝春秋」文藝春秋、1954(昭和29)年12月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,564 字 · 18 页
張作霖爆死の翌年四月、学良は、奉天督軍公署に楊宇霆を招いた。そしてかねて謀っておき、衛兵長の某をして、その場に楊をピストルで射殺させてしまった。
これを知って、かねて学良擁立を考えていた秦少将、奉天軍に入っていた黄慕(荒木五郎)等は、すかさずこの機会を捉えて、張学良を主権者に推し、学良を親日に導かんと画策した。しかし当時すでに学良周囲の若い要人達は、欧米に心酔して、自由主義的立場にあって、学良もまたこれらの者をブレインとして重く用いていたので、学良の恐日は、漸々と排日に変移し、ついには侮日とまで進んでいった。
その現れは、満鉄線の包囲路線となり、万宝山事件となり、あるいは憑庸大学の排日教育となり、排日、抗日は、むしろ張作霖時代よりもいっそう濃厚となり、日に日にその気勢を高めるに至り、秦少将らの企図した学良懐柔策はまったく画餅に帰したのであった。
こんな次第で、梟雄張作霖が亡んで学良と変っても、何ら満洲の対日関係は好転せず、かえって反対の傾向をたどり、学良政権を再び武力によって倒壊しなければ、ついに満洲問題を永遠に解決する道のないことが瞭然となった。