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わたしがちょうさくりんをころした

私が張作霖を殺した

河本 大作

「文藝春秋」文藝春秋、1954(昭和29)年12月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,564 字 · 18 页

青空文庫

武藤中将は、露西亜通で、かつて参謀本部第二部長も勤めて支那にも明るかった。この支那通というのも種々あって、ただ支那に在住し支那人と交際し、骨董品くらいを貰ってホクホクしているのを能とした類いも少なくないが、武藤将軍はそんな支那通ではなかった。

だから武藤将軍を関東軍司令官に迎えると、幕僚たる自分らの献策についても、これをよく諒解し、上下、腹蔵なく大陸経営に対する、根本的対策の相談が出来たのであった。

やがて東方会議が開かれることになった。武藤司令官もそれに出席されることになり、自分もそれに随従して上京することになった。

会議では、当然満洲における対策が討議されねばならなかったが、満鉄線に対する奉天軍閥がとった、包囲態勢に対しては、もはや外交的な抗議等では及ばないことを自分は力説し、武藤将軍は、この会議において武力解決を強調された。田中首相もこれを諒とし、武力解決を是とすることにだいたいの方針が決せられた。

そこで、自分は具体案として左の状勢を利することを献策した。その頃、支那南方に起った蒋介石が、孫逸仙とともに北伐を開始し、奉天派はこれに対して、その先端は、浙江方面上海にまで進み、張学良と楊宇霆を首将としてあたらしめていた。