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しほんたいへいき

私本太平記(一)

吉川 英治

吉川英治『私本太平記(一)』。同一底本的分册已合并为一书。收入:私本太平記、私本太平記。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 246,214 字 · 495 页

青空文庫

……高氏はもうだいぶ待った。

そのうちに、遠くで、誦経の声がした。母が朝々欠かさない地蔵経のおつとめらしい。高氏も自然それを共にするかのように頸を垂れた。そして、

――腹をすえて。

と昨夜言った母のことばを、さまざまに解してみる。「腹をすえて」。そも何を、置文のうちから見るのか?

やがて、誦経がやんだ。

と、まもなく、闇の一隅で。

り、り、り、りん……

と秋の虫でも顫え啼くように柱の鈴縄が鳴った。「……おうっ」と高氏は、腹のそこで、母の合図にこたえて起った。

廻廊から廊の橋を、キシ、キシとしずかに踏み渡ってゆく。御霊屋の一宇はいとど暗い。が、御壇ノ間の床に、手燭の小さい灯が見える。そして母の姿は、もうそこにはいなかった。

「…………」

高氏は、床に坐った。

――これ見給え、といわぬばかりに、手燭と共に、法相華文蒔絵の手筥がおいてある。筥には青銅の座金もあるが、鍵はかけてない。ぼてっと湿気をおびた一封の包み奉書が中にあった。

「……あ。これか」

いちど手にはとったが、高氏は、またすぐ下においた。

そして、御壇ノ帳の蔭に冥々と立ち並んでいる先祖代々の位牌の御厨子を、微小な灯ゆらぎの中に、じっと見あげた。