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しんのゆうしゅう

秦の憂愁

豊島 与志雄

「文芸」1944(昭和19)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,389 字 · 19 页

青空文庫

それもやはり別な物語に属する。

私が滞在していたのはブロードウェー・マンションの十五階の一室で、目の下に街衢の屋並から、遙か、黄浦江の流れや村落が展望された。多くは大気が濁っていて、少し遠くはもう茫とかすんでいた。

或る夕暮、その窓から、私は秦啓源と二人で外を眺めていたことがある。窓外にはもう蝙蝠が飛び廻っていたが、電灯もつけず、無言のままでいた。

秦は私の方を顧みて言った。

「上海では、僕はどうも異邦人のなかにいる感じだ。君の方が、上海に落着きがいいようだね。」

「まあそうも言えるね。」と私は微笑した。

それから私は真面目に言った。

「無錫に帰るのかい。」

「そうするつもりだ。此処では、なにかと邪魔が多くて、本当の仕事が出来ない。」

「上海の憂愁だね。」

「星野君の言い草じゃないが、詩を書くといいかも知れないよ。」

「うむ、そんな気もしてきた。」

それからまた私達は無言になった。やがて、言い合したように立ち上った。老酒と無錫料理とへ赴こうというのである。