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しんのゆうしゅう

秦の憂愁

豊島 与志雄

「文芸」1944(昭和19)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,389 字 · 19 页

青空文庫

「電話でもかけてみなくてよいのか。」と私は注意した。

「いや、たいていホテルにいる筈だ。」

その答は意外だった。彼は星野の動静を探り知っていたのかも知れない。私は彼の顔を眺めた。彼は眼を挙げた。

「君も、今夜つきあってくれるだろうね。」

私は微笑して答えた。

「いや、外に用事があるし、まあ、君達だけの方がいいだろう。」

彼は私を見て、かすかに微笑した。

これは私と彼との間の暗黙の了解事項だが、私達が非常に親しくなったことについては、当分のうち他に知られたくない事情があった。この事柄も別な物語でなければ述べられない。

そこで、私は暫くして立ち去ったのである。

星野武夫が張浩に案内されて来た時、秦啓源は一人ぽつんとしていた。そこは二階の広間で、幾つもの大きな卓が並んでいて、客は入れ混みになっている。秦は窓際の隅の卓にいた。

星野はつかつかと歩み寄っていった。

「やあ、しばらく。ずいぶん探しまわっていたんですよ。逢えてよかった。」

秦は立ち上って、笑顔で、黙って右手を差し出した。それから、席について、ケースの煙草をすすめた。張がマッチの火をすった。

以前通りの秦だった。